夢は先生です。
でも今はなんだかあんまり人気がないみたい。
教師が向きあうべき人が多すぎる
教室が直接向いあうのは子どもなんだけど、子どもが安定する大切なこと要因として、「親」がいます。
そこを無視するわけにはいかない。
そして、子どもは教師、親だけの力では子どもは育っていきません。
五味太郎さんの本にも、面白く描かれています。
そうなると、地域連携、幼稚園中学校との連携、そして社会に働きかけるなどなど、やることが多岐にわたってきます。
仕事にするとなんでも大変→楽しむ工夫
子どもに教えるのが好き。子どもが好き。
でもこれが仕事になると、いろんな子がいるし、なんなら子どもの後ろの親もいるし、
なんか他の事務仕事や行事仕事もふってくる。
子どもたちのためなんだけど、キャパオーバー。
仕事にする中での第一歩は、楽しむ工夫を忘れないことかも。
楽しむ工夫は、仕事を減らすとか、端折るとか、そんな仕事術的なものもあると思います。
自分に合っているものは?
癒しは?
原点は?
なんとかして楽しむポイントを探すとか、無理矢理やるのではなく、自分のキャパを超えさせないけど、成長できることに注力できるような、そんな工夫。
教師は決めつけず、成長していける
「先生だから」という言葉がよくきかれます。
この枠をはみ出てはいけない、みたいなものです。
はみ出ることで、誰かが傷ついたり、困ったりするかもしれない。それも分かった上で行動することって、成長していくことで大事なんじゃないかな。
どうしてもはみ出たことをしないといけないわけじゃなく、どっちにするか自分で決める。
やってみて考え修正する。そんな思考。
教員時代のもやもや、この「分かった上で自分で決める」ができなかったからかも。
子どもたちと向き合っていると、自分の枠が壊されそうになって、あれあれあれーってことがよくあります。
そこで、自分だったらどうするか、毎回毎回決めてアップデートしていける。
自分を満たした上でね。
常にフィードバックがある
「子どもの姿」が、自分の姿、ではない。
もし目の前の子たちが「よい」姿であれば、それはその子たちの波長やタイミングが合っているとかそういうこと。
目の前の子たちが目指す形でない場合は、その子たちの波長があってなかったり、教師である自分が子どもたちの本当の姿を見れてなかったり。
うーん、本当の姿ってなんなのか。
「子どもたちとどんな会話ができているか」を一個の指針にしてもいいかもしれない。
本当の姿は決めてよい
いつの姿が本当の姿?
どの場所の姿が本当の姿?
誰との姿が本当の姿?
今、目の前の子たちに必要なことを自分が感じられているかどうか、振り返っていきたい。
まとめ
自分の描く未来には、子どもたちがいます。
その子どもたちがキラキラしている姿を、わたしは見たい。
たぶん、ただそれだけ。